製造業で30年、産業機械を売ってきた私が、2022年に医療・介護分野への新規参入を任された。外部コンサルに戦略を描いてもらい、社内で営業を2名かき集めたが、結果は「鳴かず飛ばず」。医療業界の商習慣がわからず、採用もできず、2年近く成果ゼロ。ようやく分かったのは「医療機関における購買の意思決定プロセスを理解しない限り、何も始まらない」という事実だ。本稿は、私が工場のラインと大学病院の廊下を行き来しながら、転び続けてつかんだプロセスの全体像をまとめたものだ。2024〜2025年のトレンド(医療DX・生成AI、病院再編、ガバナンス強化、物価高と人手不足)を前提に、「具体的に誰が、どこで、何を心配するか」を書き切る。 大阪・関西の病院を巡り、支援会社や代行会社、コンサルと協働しながらヘルスケアの販路開拓と事業開発を進める中で得た知見を盛り込んでいる。
1. 医療機関の意思決定はなぜ複雑か
製造業では「技術部+購買+役員」で比較的シンプルに決まる。ところが大学病院では、診療科部長、看護部、ME機器管理室、薬剤部、病院長、購買・契約、倫理委員会、医療情報部など多くの関係者・部門が絡み、合意形成が階層的かつ循環的に進む。単独の決裁者がほぼ存在しない。
ここに、ガバナンス強化(利益相反/内部統制)、地域医療構想や病床再編、中期計画の整合、医療DX・生成AIの倫理審査、コスト圧力と人手不足が重なる。最初の私は、「関係者が多いから時間がかかるだけだろう」と考えていました。しかし実際には、一人でも不安が残ると、全体が止まるという世界でした。「スピードが遅いから問題」なのではなく、患者さんの安全と、病院の経営を守るために慎重にならざるを得ない——それが医療の現場なのだと、後になって理解できた。
2. プロセス俯瞰:6つのステージと主な関与者
ステージ1:課題認識と仮説立案
診療科からの課題感(待ち時間、エラー、在庫、働き方)、経営企画からのKPI要請(DPC係数、在院日数、時間外削減)、情報部からのDX要望。ここでのキーパーソンは診療科部長、看護部、経営企画。外部の支援会社やパートナーは「課題を翻訳する役」として入る。
ステージ2:技術適合と安全性確認
ME機器管理室、薬剤部(製剤関連なら)、医療情報部(IT/AI/クラウド案件)が主導。次に見られるのは、既存の設備や運用と合うか、危険やトラブルの可能性はないか、現場で無理なく扱えるか、医療事故などにつながらないかどうかを慎重に確認される。
ステージ3:運用設計と教育
看護部、薬剤部、診療科の中堅メンバーが「誰が、どの時間帯に、どの手順で使うか」を決める。教育工数、シフト調整、問い合わせ体制、サポート契約が焦点で、現場の業務負荷軽減は前提条件。
ステージ4:費用対効果と稟議
経営企画、事務長、購買・契約管理が関係する。ROI(投資対効果)、回収期間、TCO(総所有コスト:導入・保守・教育・運用)、中期計画との整合、代替案との比較が審査される。ここで「なぜ今か」が弱いと棚上げされる。
ステージ5:倫理・情報セキュリティ審査
倫理委員会、情報セキュリティ委員会がデータ扱い、個人情報、匿名加工、ログ保存、アクセス権限、役割と責任分担、AI更新時の確認ルールなどの審査を行う。サイクルが月1〜3か月に一度のこともあり、資料不足は導入機会損失になる。
ステージ6:契約・運用開始
最後に、契約条件やサポート内容を確認し、実際の運用が始まる。しかし、導入直後の支援が弱いと現場に定着せず、「結局、前のやり方に戻した方がいい」という結論に至ることもある。
3. 部署別の視点と「心配ごと」を先読みする
診療科部長/医局
関心は臨床成績、患者安全、医師の時間。新規性よりも「臨床ガイドラインとどう整合するか」「責任は誰が取るか」を聞かれる。私はここでよく詰まった。
看護部
看護記録、申し送り、教育工数、夜勤負荷。業務負荷の軽減が重要。時間削減を具体的に示し、教育計画とサポート窓口を先に出す。
ME機器管理室・臨床工学
安全性、互換性、保守性。リモートサポートやセルフメンテの手順を明記し、責任の範囲をはっきりさせると信頼に変わる。
薬剤部
製剤・薬機に絡む場合は、添付文書、ガイドライン、冷所・滅菌・廃棄フローへの影響を聞かれる。物流や在庫に関わる場合も同様。
医療情報部/CIO
情報は安全に管理できるか。既存システムと合うか。院内のルールに沿っているか。ここを先出しできないと入口で止まる。
経営企画・事務長
中期計画との整合、ROI、回収期間、リスクと撤退条件。複数病院グループなら横展開の手順も求められる。
購買・契約管理・法務
契約条件、再委託禁止、情報漏洩時の対応。個人情報・医療データの扱いに厳しい。
4. 2024〜2025年のトレンドを織り込む
医療DX・生成AI
セキュリティとガバナンスの先出しは必須。電子カルテやオンラインシステムが広がる中、情報の扱い方や誤作動への備えを、最初に分かりやすく説明できると安心感が高まる。
病院再編と地域医療構想
急性期/回復期の役割分担、病床再編とリンクさせる。 「この仕組みを他の病院にも広げやすいか」という視点が、意思決定の重要なポイントとなる。
コスト圧力と人手不足
時間外削減を具体的に示す(週何時間×年間×人件費)。医療従事者一人ひとりの負担が増え、限界に近づいている現場も多く、「どの作業が、どれだけ、誰の負担を減らすのか」を具体的に示す。
働き方改革と人的資本
タスクシフトの安全策をセットで出す。教育・再教育の計画を添えると現場が安心する。かかる費用に対して、「何がどのように良くなるのか」を数字と現場の声の両方で示すことが重要。
5. ありがちな詰まりと回避テク
倫理・情報セキュリティ審査の資料不足
必要な資料が出揃わず、審査に乗らない。最初の面談で「必要書類の一覧」を確認し、ひな型を用意。
「なぜ今か」が弱い
中期計画、重点診療科、働き方改革、コスト圧力のどれかと紐づけ、「今年度の導入理由」を言語化する。 こちらの都合ではなく、病院側のスケジュールを優先し、無理に前倒ししようとしない。
教育工数を見誤る
初期教育だけでなく、夜勤・新任交代時の再教育、マニュアル更新、問い合わせ対応の動線を描く。
横展開の絵がない
同グループ病院へのスケール手順(契約、教育、サポート、データ移行)を1枚にまとめる。これがないと「まず1病院で様子見」と言われて終わる。
6. 私の失敗とリカバリー
最初の病院で、情報セキュリティ委員会の開催サイクルを聞き逃し、3か月遅れた。次の病院からは「今月と来月の審査日」を初回で聞き、足りない資料は1週間で埋めると約束した。結果、倫理+情報セキュリティ審査を90日で通過できた。
別の病院では、看護部の教育工数の重要性を見誤り停滞。再訪問で夜勤帯の実務を見学し、手順書を一緒に作ったところ、プロジェクトが再び動き出した。現場の時間をもらい正面から向き合うことが、一番の近道だった。
7. 50の項目でなぞるチェックリスト(短縮版)
- 審査会スケジュール:いつ、どんな審査があり、資料の締切がいつか把握しているか
- 費用対効果:かかる費用に対して、「時間・負荷・人件費の変化」を説明できるか
- 教育計画:誰に、いつ、どのように教えるか、教育の手順が決まっているか
- 他病院への横展開:他病院へ横展開する際の流れを示せているか
- トラブル時の対応:トラブル発生時に、誰がどう動くか、代替手順を用意しているか
- 信頼の材料:過去の実績や、他施設での導入事例・評価の声を示せるか
- デモ評価の条件:「何を評価するのか」「中止する場合どこで判断するのか」を共有しているか
- 病院方針との整合性:病院の中期計画や重点テーマと、提案内容がきちんと結びついているか
- 現場の状況イメージ:日勤や夜勤、忙しい時間帯でも無理なく運用できる設計になっているか
- 情報の説明力:個人情報や機微な情報の扱いについて、専門用語に頼らず説明できるか
…(実際は50項目あるが、ここでは主要10項目だけ抜粋)
8. 30・60・90日の実践メモ
0〜30日
キーパーソンや関係者を整理し、必要な書類をそろえ、審査や会議のスケジュールを共有する。
31〜60日
デモ評価を実施し、評価の視点(見るべきポイント)を事前にすり合わせる。
61〜90日
デモ評価の結果を、数字と現場の声の両方で整理し、会議資料にまとめ、次のステップ(本格導入やグループ展開)を相談する。
9. ケーススタディ:製造業から医療参入の実例
ケースA:在庫・購買の可視化クラウド
消耗品の在庫が見えるようになり、廃棄が減り、在庫の持ち方も適正化された。
ケースB:看護部向け文書生成支援
記録の仕組みを見直すことで、夜間の作業時間が減り、働き方改革の目標達成につながった。
ケースC:医療情報部が主導するセキュリティ審査
初期段階から情報管理部門と話し合いを重ねた結果、院内調整がスムーズに進み、経営層の理解も得やすくなった。
どの事例も、共通していたのは、「現場と一緒に考える」ことから始まっていた、という点。
10. よくある質問
Q:まず、どこから話をすればよいですか?
A:案件にもよるが、多くの場合、早い段階で情報管理部門と機器管理の担当部署に相談しておくと、後の手戻りが少なくなる。
Q:価格の話は、いつしますか?
A:価格の前に、まずは「なぜ必要なのか」「どう良くなるのか」という理由と価値を一緒に整理する方が、話がスムーズに進みます。
Q:失注したら、どうしますか?
A:理由を定量・定性で記録し、次の病院で仮説を試す。私は「失注レポート」を社内で共有し、再提案までの期間を半分にできた。失注分析は、そのまま次の成功への近道になる。
11. まとめ:不安を一つずつ減らしていく「伴走」の価値
医療機関の購買意思決定は「誰かを説得する作業」ではなく、「関係者それぞれの不安を一つずつ減らしていく作業」だ。私が学んだ勝ち筋は、「仮説」と「検証」の両輪を、現場と一緒に回していく姿勢。
いまでも毎週、小さな失敗と小さな前進を繰り返している。病院のカフェでコーヒーを飲みながら「今日はどこで詰まったか」をメモする5分間が、次の突破口になる。あなたの参入が、私の失敗より少しだけ速く進むことを願っている。
12. 日々の小さな習慣が効く
・初回面談の直後に「今日聞けなかったこと」を3つメモし、翌日に必ず回答をもらう。
・病院のカフェで5分、今日の失敗を2行書く。翌週の自分への手紙と思うと続く。
・現場の言葉をそのまま提案書に入れる。「手順が一つでも増えると夜勤は回らない」
・失注連絡をもらった日こそ、次の病院の面談日を確保する。活動の勢いを切らさない。
13. 終わりに:工場と病院の間で
工場の生産ラインでは、設計したとおりに動くことが前提だ。大学病院では、人とチームと時間が複雑に絡み、設計どおりに動かないことが前提だ。最初はこの違いに戸惑ったが、いまは「設計+対話」、「仮説+検証」の両輪で進む感覚が身についた。
また明日、病院に行く。誰かの時間を少しでも取り戻せるように、そして自社の新規事業が一本でも早く軌道に乗るように。あなたの挑戦が、私より少し楽になることを願っている。 コーヒーの湯気を眺めながら、「今日は誰の不安を減らせたか」を自問する。答えが一人でも浮かべば、その日は前進だ。
そしてまた、次の病院のカレンダーに予定を入れる。動けば学びが増え、学びが増えれば提案が強くなる。大きな成功よりも、小さな前進を積み重ねることこそが、医療機関の購買意思決定プロセスを動かす一番の近道だった。
工場の仲間に「医療は大変だな」と言われるたびに、「だからこそやる価値がある」と返す。人の命に関わる現場で、外部の私たちができるのは、相手の時間と不安をどれだけ減らせるか。その一点だけを握りしめて、明日も病院に向かう。
また病院のカフェで、同じように挑む誰かとすれ違うかもしれない。そんなときは、失敗談を一つ交換しよう。それだけで、次の一歩が少し軽くなるはずだ。
追加リソース
事業開発の課題、リソース不足、大病院の販路開拓…。あなたが今抱えているお困りごとをまずはお聞かせください。病院の購買プロセスの理解、キーパーソン(購買意思決定層)へのアプローチには、業界に精通したプロの知見が役立ちます。その伴走支援の進め方はLPにまとめています。導入ステップや費用感は詳しくはこちらからご確認ください。
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