「MRさん、この新薬の併用禁忌、もっと早く教えてよ」 医師からのこの一言に、何度冷や汗をかき、頭を下げたことでしょう。
かつて医薬品メーカーのMR(医薬情報担当者)として、毎日何軒もの病院や薬局を駆け回っていた南田です。 現在は本社で、営業企画部の部長として、いかにMRの業務を効率化し、医師との面談(ディテーリング)の質を高めるかという「Sales Ops(セールス・オペレーションズ)」の仕事に携わっています。
MRの現場は今、かつてないほどの大きな転換期にあります。 業界全体での人員削減、厳格化される接待規制、そしてコロナ禍で加速した「会えない」環境。 限られた人員と時間の中で、医師に必要な情報を届け、患者さんの安全を守る(適正使用を推進する)。 この難題を解決するための鍵となるのが、実は「電子お薬手帳」なのです。
「なぜMRが電子お薬手帳?」と思われるかもしれません。 お薬手帳は、患者さんと薬剤師のためのものでしょう?と。 しかし、このツールが社会インフラとして普及し、医師や薬剤師が患者さんの服用歴をリアルタイムで把握できるようになれば、私たちMRがこれまでアナログで担っていた「情報伝達のラストワンマイル」が劇的に効率化されるのです。
本記事では、製薬企業の営業企画(Sales Ops)という少し特殊な視点から見た「電子お薬手帳」のポテンシャルと、それがもたらす医療情報のDX(デジタルトランスフォーメーション)について、ビジネスの裏側を少し交えながら解説します。
第1章:なぜ、製薬企業が「電子お薬手帳」に注目するのか?
1. 「併用薬確認」というMRのノンコア業務の削減
MRの仕事の多くは、実は「確認作業」や「副作用情報の伝達」といった守りの業務に費やされています。 「先生、あの患者さん、他院で〇〇を飲んでいませんか? うちの薬と併用すると危ないですが……」 医師に確認を促し、安全性を担保する。これは極めて重要ですが、非常に手間がかかります。 もし、電子お薬手帳のデータが電子カルテと連携し、システムが自動で禁忌チェックをしてくれたらどうなるでしょうか? MRは、こうした確認作業(ノンコア業務)から解放され、もっと高度な「治療提案」や「最新の医学情報の提供」といった、MRにしかできないコア業務に集中できます。 電子お薬手帳による情報のデジタル化と一元管理は、MRの働き方改革に直結するのです。
2. トレーシングレポートの質の向上
薬剤師から医師への情報提供書(トレーシングレポート)は、製薬企業にとっても貴重な情報源です。 しかし、紙の手帳や口頭での聞き取りでは、情報が曖昧になりがちです。 電子お薬手帳を通じて、「残薬数」や「服薬後の体調変化」「副作用の初期症状」が正確にデータ化されれば、より精度の高いレポートが医師に届きます。 これは、私たちの薬が「正しく使われているか」「効果が出ているか」を知るための、重要なバロメーターになります。 精度の高いフィードバックがあれば、MRはより的確な提案ができます。
3. ビッグデータとしての価値(RWD)
私たち製薬企業が今、喉から手が出るほど欲しいのが、「リアルワールドデータ(RWD)」です。 治験(臨床試験)という厳密に管理された環境ではなく、実際の生活の中で、多様な背景を持つ患者さんに薬がどう効いているか。 電子お薬手帳に蓄積された膨大な服薬データは、新薬開発のヒントや、市販後調査(PMS)の工数削減、そして新たな適応拡大の可能性を探るための「宝の山」なのです。
第2章:普及を阻む「壁」と、それを乗り越えるシナリオ
これほどメリットがあるのに、電子お薬手帳の普及率はまだ5割程度と言われています。 なぜか? それは「ユーザー(患者)メリット」の設計が甘いからです。 現場を見てきた私が考える、普及への鉄則です。
鉄則1:「管理」ではなく「体験(UX)」を売る
「あなたのために薬を管理しましょう」と言われて喜ぶ患者さんはいません。管理されたくないのが人間です。 「待ち時間がなくなりますよ(処方箋送信)」 「家族の薬もまとめて見られますよ(ファミリーケア)」 「飲み忘れたら優しく通知しますよ」 という、生活者の視点に立った具体的なメリット(UX/ユーザー体験)が必要です。 製薬企業としても、単に薬を売るだけでなく、こうした「服薬体験」を向上させるアプリ開発への投資や、ベンダーとの提携を始めています。
鉄則2:医師・薬剤師の「見る手間」を減らす
現場の医師は忙しすぎます。 「患者さんにスマホ画面を見せてもらわないと分からない」現状の仕様はナンセンスです。 診察室の電子カルテのボタンを一つクリックすれば、承認された患者の最新の服薬情報がポップアップする。 この「シームレスなシステム連携」がない限り、医師は積極的に使いませんし、普及もしません。 ここには、私たちメーカーが電子カルテベンダーに働きかける余地があります。
鉄則3:高齢者への「デジタル支援」
ターゲットとなる高齢者にこそ、デジタルの恩恵が必要です。 薬局の待合室で、アプリのインストールを手伝う。使い方が分からないお年寄りに、優しく教える。 これを「雑用」と捉えるか、「エンゲージメント(関係構築)の機会」と捉えるかで、薬局の未来は変わります。 私たちMRも、薬局向けの資材(大きな文字のポスターや説明動画)を提供し、この活動を支援しています。
第3章:ステークホルダー別メリット ~Win-Win-Winの関係~
このツールに関わる全員にメリットがなければ、社会実装は進みません。
1. 医師・医療機関
- メリット: 問診時間の短縮、重複投与・禁忌の見落とし防止(医療安全)、ポリファーマシーの解消。
- 視点: 「MRに聞かなくても、画面を見れば分かる」状態になれば、診療スピードが上がり、より多くの患者さんを診ることができます。
2. 薬剤師・薬局
- メリット: かかりつけ機能の強化、対人業務へのシフト、来局予約による業務平準化。
- 視点: アプリの通知機能を使えば、電話をかけなくても服薬フォローができます。空いた時間で、在宅対応など付加価値の高い業務に回れます。これは薬局経営にとってもプラスです。
3. 製薬企業(私たち)
- メリット: 副作用情報の早期収集、MRの生産性向上、RWDの取得。
- 視点: ルーチンワークをデジタルに任せ、MRは「薬を売る人」から「医療課題を解決するコンサルタント」へと進化できます。これは、私の目指す「Sales Opsの改革」そのものです。
第4章:これからのロードマップ ~データがつながる未来~
電子お薬手帳は、あくまで入り口です。その先にあるのは「PHR(Personal Health Record)」の世界です。
ステップ1:マイナポータル連携の標準化
マイナンバーカードを使えば、過去の特定健診の結果や、他院での処方情報を一括で取得できます。 今はまだ「やり方が分からない」人が多いですが、これが標準になれば、手入力の手間はゼロになります。 国も強力に推進しており、ここ数年で一気に進むでしょう。
ステップ2:電子処方箋の全国展開
国が進める「電子処方箋」が普及すれば、紙の処方箋を持ち歩く必要すらなくなります。 医師が処方データをクラウドに上げ、患者はアプリで薬局を指定する。 薬局に行けば、既に薬が用意されている。 これが当たり前の風景になります。
ステップ3:治療アプリ(DTx)との融合
例えば、高血圧治療用アプリと電子お薬手帳が連携し、「薬の効果」と「生活習慣(血圧、塩分摂取)」の相関が見えるようになります。 「薬をちゃんと飲んだら、血圧が安定した」ことがグラフで可視化されれば、患者さんのモチベーション(アドヒアランス)は劇的に向上します。 製薬企業にとっても、自社の薬の価値を証明する強力なツールになります。
第5章:明日から使えるアクション・チェックリスト
医療従事者の方、そして薬局経営者の方向けのリストです。
- [ ] 患者さんのスマホに、電子お薬手帳が入っているかを確認していますか?(まずは聞くことから)
- [ ] アプリの「家族登録機能」を案内していますか?(娘さんが親の薬を管理するケースが増えています)
- [ ] 「e薬Link(イークスリンク)」で、他社のアプリとも連携できることを知っていますか?(囲い込みは逆効果です)
- [ ] 災害時に備えて、オフラインでもデータが見られるか確認していますか?
- [ ] スタッフ自身がアプリを使って、使い勝手を体感していますか?(自分が使っていないものは勧められません)
【実録】ケーススタディ:MRと薬局が連携して普及させた例
地方都市 H薬局チェーンの事例
【課題】 地域全体でポリファーマシー(多剤併用)が問題化していた。複数の病院から大量の残薬が出ていたが、情報共有が進まず改善が見られなかった。
【アクション】 私が担当していたエリアで、製薬企業主催の地域連携勉強会を開き、「電子お薬手帳を活用した残薬整理」をテーマにしました。 薬局スタッフに、高齢者へのアプリ導入支援の手法(スマホ教室の開催など)をレクチャーし、私たちMRも裏方としてサポートしました。
【結果】 アプリ導入率が半年で3倍に跳ね上がりました。 その結果、重複投薬の発見件数が増え、医師への疑義照会が活性化。残薬が減り、ポリファーマシーが解消に向かいました。 結果として、地域の医療費削減に貢献し、医師からの薬局への信頼も高まりました。 MRとしての私も、「薬を売る」のではなく「仕組みを作った」ことで、医師から高く評価され、結果的に自社薬のシェアも向上しました。
よくある質問(FAQ)
Q. 全国のアプリが多すぎて統一してほしいのですが。 A. 現場の切実な声ですね。しかし、今は「e薬Link」という仕組みで相互閲覧が可能になっています。どのアプリを使っていてもデータは見られるので、患者さんには「使いやすいものを一つ選んでください」と伝えてください。無理に自局のアプリに変えさせる必要はありません。
Q. 本当に高齢者が使えますか? A. 「薬のため」だけだと使いませんが、「孫の写真を入れられる機能」や「歩数計機能」など、健康以外の楽しみがあるアプリは定着率が高いです。また、ご本人ではなく「介護する家族(娘・息子)」のスマホに入れるケースが増えています。家族を巻き込むのがコツです。
現場で使える!重要用語解説
- PHR (Personal Health Record):
- 個人の健康・医療・介護情報を統合的に管理する仕組み。電子お薬手帳はその中核です。
- e薬Link (イークスリンク):
- 日本薬剤師会が提供する、異なる電子お薬手帳サービス間で情報を連携するシステム。
- アドヒアランス:
- 患者さんが積極的に治療方針の決定に参加し、その決定に従って治療を受けること。「コンプライアンス(言われた通りに飲む)」より一歩進んだ概念です。
コラム:MRがいなくなる日?
「DXが進めば、MRはいらなくなるのでは?」 よく聞かれる質問です。 私のSales Opsとしての答えはNOです。 ただし、「情報を右から左へ運ぶだけのMR」はいなくなります。
電子お薬手帳のようなデジタルツールが基礎情報を網羅してくれるおかげで、私たちMRは、より人間臭い仕事、つまり「医療者の悩みに寄り添い、複雑な課題を解決するパートナー」としての役割に特化できるようになります。 南田が目指すのは、デジタルとアナログが融合した「ハイブリッドな営業組織」です。 ツールに使われるのではなく、ツールを使い倒して、日本の医療の質を上げていきましょう。
大きな成長市場です。
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